2011年10月30日日曜日

江戸水道の石枡

 ホテルニューオータニの横から庭園へ入って、井伊家時代そのままのイヌマキとカヤの大木を眺めた。樹齢200年の木のてっぺんは見えない。
その横の‘なだ万本店’とその勝手口を、「今度来ようね!」と冗談を言いながら通り過ぎた。

紀尾井町を南北に貫いている急な坂道を降りて、清水谷公園に行くと2m近い‘石枡’が展示してありました。昭和45年道路工事中出土したものです。多摩川の水を羽村から四谷まで引いてきて、江戸城内や武家地に引き入れるため、石枡に引き込み、木樋(もくひ)で分水したそうです。水質管理用・揚水用・分水用などがあるそうです。
江戸時代から清水谷と呼ばれているこの場所は、昔から湧水が湧き出ていた所だったそうです。
 暫く歩いて、井伊家上屋敷辺りから桜田門へ向かいながら、「3月24日の大雪の朝、井伊直弼が駕篭で登城中に水戸藩士らに襲われた場面」を見るが如くに、黒田涼氏が語って下さった。辺りを見渡し、想像して背筋が寒くなった。
井伊家側は大老ら9人死亡、13人負傷。死亡者は相続が認められ、重傷者は幽閉、軽症者は切腹、無傷のものは斬首というのが凄まじい。


日比谷公園は秋のバラが美しかった。
公園内の隅っこにも‘石枡’が残してあった。説明文を立てて欲しいものです。

最後に和田倉噴水公園のガラスのレストランを横目に見て、左へ回り込むと、枡形門の石垣の下に‘石枡’があった。
江戸の人口が増えるにつけ、水事業は大切なものだったろうと思う。今も水事業は大切だなあと思った。
和田倉橋の所で雨が激しくなったので、地下道を通って東京駅へ出て帰りました。












2011年10月27日木曜日

加賀の指貫

 以前友人のお裁縫箱を覗いて、絹糸の色の多さに驚きました。
何年も前から、加賀の指貫を作っているそうで、いつか指貫を見せて頂くことになっていました。
今日持って来て、見せてもらいました。美しい幾何学模様が細かく、絹糸で綴られている。周りの人もその美しさと細かさに感動しました。
加賀友禅のお針子達が残り布と糸で、真綿を入れて作り伝承されてきたそうです。
金沢市在住の大西由紀子さんのおばあさまが、2000種もの模様の記録を残されていたとか!それが今、静かに広まってきているそうです。
お裁縫箱の中で、絹糸の多さにも驚いたけれど、ドイツ旅行で求めたという鋏が気に入りました。付けてある人形はお手製です。

2011年10月24日月曜日

あけび (アケビ科)

 きのうの夕方、若い友人が自転車で‘あけび’を届けてくれました。
「こんなに沢山どうしたの?」「うちの庭で100個くらい生ったの!」と言った。葉も添えてある。じくに掌を広げたように五枚の葉が付いていた。
藤棚かなあと思っていたのは、あけび棚だったのか!
半透明の柔らかい果肉に黒い種がある。子供の頃、種をプップッと飛ばしながら食べました。
種から採る油は珍重されるそうですが…。
アクが強いので、皮は湯掻いて、味噌炒め、てんぷらすると食べられるようだけれど、塩麹に漬けて漬物にしてみよう。自然のものはアクもご馳走です。
‘ムベ’は赤紫色をしている。時々お庭に見かけることがあります。
花の写真は「ようこそ植物園へ」からお借りしました。

2011年10月23日日曜日

秋明菊(秋牡丹) キンポウゲ科

 中庭花壇に、秋明菊がようやく花開き、蕾も増えてきました。
四月初めの頃、「苗を買ってきたから植えて!多年草だから増やしましょう!」とMさんが3株下さった。菊といわれるけれどアネモネの仲間です。
 十月中旬、‘ねむの木の庭’を訪ねた時に、白い秋明菊が咲き乱れていました。
池田山の美智子皇后の住まわれていた正田邸は寄付されて、今は庭園公園として開放されています。真ん中に‘大きなねむの木’が立っていました。
花々の側には、皇后の詠まれた短歌を刻んだ碑が立っています。
池田山は岡山藩池田家下屋敷の一部が明治以降に分譲された場所です。

2011年10月20日木曜日

封じ結び (お守り結び・叶結び)

 お守りを作り、口を閉じる‘封じ結び’を教わりました。
男子用と女子用が出来あがったけれど、結びは難しい。何度も繰り返し練習して、りぼんの長さを調整しました。男子用には‘福良雀’。女子用には‘梅’の押し絵を張りました。
お守りは神社仏閣で手に入れるけれど、手作りのも良いと思う。
願い事を書いて、願いを袋の中へ閉じ込めて、身に着ける。昔から加護・招福を願って、魔よけとして身に着けた。
外国でも、エジプトのスカラベ、四つ葉のクローバー、石、悪魔を寄せ付けない‘にんにく’ペンダント等などある。
「ぼけないように」と書いてお守り袋の中へ入れよう!

2011年10月19日水曜日

豊年祭り








「秋祭りだったよ~」という便りに写真を添付して、故郷の妹が送ってくれました。
懐かしい‘やぶ(野巫)’の写真を見て、一気に子供の頃に戻りました。
祭り太鼓や笛の響き、お神輿、屋台、大勢の人々の間を走り回る子供たち!
突然、赤や緑の面の‘野巫’が竹刀を振り回しながら現れ脅す!追い回す!面の下の声はくぐもっていて、一層怖かった~!お酒のニオイをぷんぷんさせていることが多かった!宵祭りに高い場所に飾られた赤い漆塗りの酒桶は、明かりに美しく光っていた。
家に居ても、流れてくる太鼓の音や笛の音が聞こえる。

野巫ってどうゆう意味なんだろう? 平生は農業をしながら神社を守る人?神に仕えながら医を司った?行者?
‘鬼’もよく出てくるけれど、同じような存在だろうか?その辺が判らない。きっと古い文献に出ているような気がしてきた。

2011年10月18日火曜日

デュオ・プリマ/デュオイズム

 友人達とヴァイオリンのコンサートへ出かけました。 
プリマはスペイン語で従姉妹(いとこ)という意味だそうです。
仙台フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターである神谷美穂さんと 磯絵里子さんは幼い頃から一緒にヴァイオリンを習ってこられたそうで、神谷さんのお姉様はヴィオラ奏者です。ご主人はフランス人。途中、トリオでチェロを弾かれた。
ピアノは、笑顔もチャーミングな中川賢一氏でした。
マリー・ルクレールの「2つのヴァイオリンのためのソナタ」から始まって、クヴァンツ、テレマン、モーツアルト、プロコフィエフ、ショスタコービッチ、バルトークの作品の数々。最後のサラサーテの「ナヴァーラ作品33」は興奮するくらい素晴らしかった。
美しい二人の二の腕は舞うように華やか動きで、目が離せなかった。
 会場は地下鉄大江戸線の築地市場駅A2から上がった朝日新聞本社ビルの2階の、浜離宮朝日ホールでした。
午後七時開演なので、早目に集まり築地場外市場近くで、お寿司とあら汁を食べた。が大きな鯛の骨を喉に引っ掛けてしまい、皆に心配をかけてしまった。目の前に国立がんセンターのビルが聳え建っているとはいえ、その場で取れなかったらコンサートどころではなかった!
 帰りに、小さなヴァイオリンケースを持った小学校低学年の男の子とママも地下鉄の駅へ降りて行った。彼は私よりももっと美しい旋律を感じただろうなあ!と思った。

2011年10月16日日曜日

東京都庭園美術館

 ボランティアガイドの方が「今月いっぱいで、2~3年間休館になります。」と言われた。後ろの方に新しい建物が建つらしい。アールデコ様式の建物を鑑賞するように、邸宅鑑賞の手引きと見取り図を貰って歩いた。説明する人があちこちに立っておられて、見学者も多かった。
「普段は写真撮影はお断りしていますが、どうぞご自由に。三階も是非ご覧になって下さいね。」と言われた。
外から見ると三階が確かにある。温室になっていて、石造りのプランターもあり、壁にむき出しで蛇口が付いていた。椅子が素晴らしい!
 一時期迎賓館として使われていて、2階の朝香の宮の書斎は、外務大臣時代の吉田茂が7年間使っていたそうです。「その頃白洲次郎も出入りしていたでしょうね!」と笑いながら話された
 何年前だか妹と「ZADKINE展」に来た時に「放蕩息子の帰還」というブロンズが気に入って、絵葉書を買った。
帰りにみると、お隣の‘金田中のカフェ’も賑わっていた。


2011年10月15日土曜日

清泉女子大学本館(旧島津公爵邸)

 「江戸時代の伊達家の下屋敷は、明治の世になり島津家のものとなりました。家屋はそのまま使っていましたが、明治39年にジュサイア・コンドル(英1852~1920)に設計を委嘱して建て変えられました。」と清泉女子大学の方が説明して下さった。
正面玄関一面のステンドグラスの上には、丸に十の字の家紋が入っていた。
 昭和初期の金融恐慌で、島津家も経済が逼迫し、3万坪の敷地は8000坪を残し売却。大戦が激しくなり日銀へ売却。敗戦後はGHQが接収。
横須賀にあった清泉女子大は治安が悪く移転を考えていた折に、吉田茂氏と親交あったシスター達の願いで、昭和36年に日銀から土地・建物を買い取りました。と説明された。広い芝生の先の森に中に見事なフウ(楓)の木があった。伊達家の頃の樹で樹齢200年だそうで、「1ヵ月後には見事に紅葉しますので見に来て下さい。」とも。
大河ドラマ「篤姫」以来‘島津山’は人気で、周辺には‘●●島津山’‘島津山■■’という名前のマンションが多い。
「マンション建設反対」の幟も家々の前に立っていた。

2011年10月13日木曜日

麒麟

 今日は、お稽古の後に、高橋よう子先生とお仲間でお昼を食べました。
上海小南国銀座店のランチは手ごろな値段で、手が込んでいながら爽やかな料理で、しっかりしたスープでした。
‘麒麟’の大きな像(2m×1m)が目に付いた。古墳から掘り出したような仕上げになっている。お店の周さんに伺ったところによると、「中国5千年の歴史上の空を翔る生き物で、鹿・龍・蛇・馬からなる想像上の動物です。」ということだった。
壜にも素敵な中国服が着せてあった。

 4年前、博多の‘キリン幼稚園’へ孫が通っていた時、園服をたたんでいて、裏のタグを見ると、どれにも‘キリン児’という文字が入っていて驚いた!
「まあ!麒麟児を育てる幼稚園へ行かせているの?」と訊ねると「麒麟児ってなあに?」とママが言った。「……?」


2011年10月12日水曜日

 夏頃から立ったり、しゃがんだりが重くなった。夏ばてかなあ?と思っていたけれど、9月21日の台風の折に5時間立ちっぱなしだったせいか、終日サポーターに頼るようになった。
K整形外科で診て貰った。K先生に、1年半前から骨粗鬆症のための薬を頂いている。「X線写真に写るほど半月板も関節軟骨にも異常はありません。少しづつ磨り減っていくものだから、大腿四頭筋を鍛えて膝がぐらつかない様にして下さい。サポーターに頼ってはいけない!寝る時は膝の裏に枕を!」とおっしゃった。シップを貼ってもらって帰りに、Y眼科へ久し振りに行った。白内障予防の目薬がとっくになくなっていた。
まつげが眼球に張りついていたのを4本取ってくださり、目薬を出して頂いた。まつげが眼球に張り付いているなんて!何も気づかなかった!
「他に気になることはありますか?」と聞かれて思わず「膝がちょっと…」と言ったら「いや!目に関して!」と笑われてしまった。
この所ずーっと膝のことで頭が一杯だったから。
 帰りに靴屋さんで、足を包み込んでO脚を治す立体成型の中敷を求めた。歩くとやっぱり痛い感じが残る。

2011年10月9日日曜日

ガーデンシクラメンとコスモス

 毎月第2日曜日は中庭花壇の植栽日です。
先月植えた‘強いはずのナデシコ’は、花が終わると次々と枯れて「どうしたんだろう?」と皆で話していたが、仕方ないので動かして、ガーデンシクラメンとコスモスを植え足した。

 ガーデンシクラメンは埼玉県本庄市の田島嶽氏が、鉢植えの大きなシクラメンと原種を交配させて、育てやすく、寒さに強い小さなシクラメンを作られた。
霜にも強く、夏越えもさせやすいし、寄せ植えに良い。
昨年11月末頃に東松山の森林公園で、小さいシクラメンの原種の群生地を見て、感動したことを思い出した。
 今の季節はコスモスをあちこちで見かける。ピンク・白・赤い花が揺れるのが可愛い。
明治の中頃入って人気者になった。しかし、「河川敷などに種を蒔いて、一面コスモスの原っぱにするのは、在来の植生が乱れる」という批判があると聞く。

2011年10月8日土曜日

ブリッジ

 「シャンシャイになったからブリッジできるようになったよ!」
「すっごーい!見せて見せて!」と言ったら、ブリッジをして見せた。ウン?なんか違う!両手を腹に乗せている。が手の置き方を教えるには幼いだろう!
「有難う!」と拍手した。早く止めさせないと、頭も首も痛めてしまう。計ったらお尻が25cm上がっていた。
幼稚園で組み体操を見てから真似しているらしい。
写真を撮りたかったので、もう一度お願いしてしまった。
プリントしてみて、表情が頑張っていたので笑ってしまった。



2011年10月7日金曜日

地下道

 名古屋市栄にある‘安藤七宝店本店’の蔵の美術館で、七宝焼きを見たいと出かけた。松坂屋本店前の道路をはさんで、向かい側にある。
地下鉄名城線の矢場町駅から地下道を歩いていて「まあ!きれい!」と声をあげた。人々は知らん振りして歩いている。珍しくないのだろう。
様々な図柄が描かれてあった。
大理石?大理石風?の壁に、薄く削いだ石を染めて、タイルのように張ってあった。広告は一切ない。
 
古代バビロンの王宮と神殿を繋ぐためにユーフラテス川の下を通したといわれている地下道にもこんな模様が施してあったかもしれないねえ!と一人で思った。
蔵の美術館は水曜日はお休みだったけれど、無料招待券を下さった。


2011年10月6日木曜日

ご先祖さま

 夫の母の3回忌のために帰郷しました。誰も住んでいない家は、さほど変わっていなかった。仏壇も墓も変わらずに花柚子が今年も沢山実っていました。

 廣島空港まで出迎えてくれた妹が「私たちのご先祖さまの土地へ行ってみない?」と言って車を走らせてくれた。私の父の故里は、空港から30分くらいの高屋という場所です。明治39年生まれの父は「毛利の家臣で、うちは庄屋だった。」と言っていたけれど、本家でもなく、長男でもないので、工業学校を出て軍港の町に住み着いた。昭和5年頃シンガーミシンの代理店を興して、部品輸入、組み立て、販売し、母が洋裁教室を併設していた。戦後は進駐軍が引き上げる時に、ミシンを持って帰るので繁盛していた。
備後平野は美しい稔りの秋の風景で、祭りの準備で幟なども立っていた。昭和44年に県の史跡に指定され、資料館もあるらしいけれど、寄るのは又の機会にしましょう!と呉の町へ急いだ。
帰宅してから、県史やウイキペディアを読んでみて、もっと父の話を真面目に聞いておけば良かったなあと反省した。
故里を離れて、もう47年も過ぎた。