2010年1月29日金曜日

帰りの便

 松山から、夕方の便に乗る事ができた。席に落ち着いてから、アナウンスで「…機長はE・副操縦士はS…。」と言っている。「あれ?E・英之くんかな?」 コーヒーを頂いた時に聞いてみた。「左様で御座います。」とのこと。‘中島のおばちゃんが乗っている’と 伝えて貰った。
乗客の皆さんが降りられた後に、颯爽と操縦室から出てきた。まあ!立派になって!と ウルッとした。
「偶然ですねエ!驚きました!こんな事があるんですねえ!おばさんは、ちっともお変わりなくて!今夜、母に電話します。」
まだ仕事中なので、すぐ別れた。
幼稚園の頃からの息子の友達で、大学生になっても、「ママ!」と言っていたのに。
翌日、ママが、「まあ!偶然だったねえ!私達もまだ乗ったことないのよ!ちゃんと無事に着いた?」「うん、着地も上手だったわよ。でも、半袖着てたわ!」「あの部屋は暑いらしいよ。」 と 母親達の会話は成長していない。

2010年1月28日木曜日

松山城

 1602年に加藤嘉明によって築城された城は、平野の中の丘陵に建つ‘平山城’で、戦国の頃の‘登り石垣’を築いていた。
‘賤ケ岳七本槍’の一人の加藤嘉明は朝鮮へも出兵して後 、関が原の合戦では徳川方として戦い、城のあちこちに葵の紋が入っていた。加藤家の紋は‘蛇の目’でシンプルだった。
城内には桜の木が多くて、春になると、さぞ美しいだろう!と、「城と咲き誇る桜の風景」を 想像した。
 街中からロープウエイで城へ登り、チケットを渡して歩き出すと‘くろがねもちの実’が鈴なりで、皆見上げているが今の時期、何故、鳥達は‘くろがねもちの実’を食べないのかしら?と思った。

2010年1月27日水曜日

砥部町




 「砥部焼の窯元へ行きましょう!」と国道33号線を走っている時に、「そろそろ‘とべ動物園’だわ!」と彼女が言った。「寄り道して‘ピースくん’に会いたーい!」と私。
動物園の入り口までの緩い坂には、いろんな動物の足跡の金属が嵌まっていて、その上を踏みながら歩いた。
「アミメキリンは、こんな足跡してるんだ!面白いね!皆に踏ませてあげたいね!」
十歳に成長した‘ピースくん’は巨大な身体で、お昼寝をしていた。飼育係さんをママと思って育って、水に入るのも怖がったのに、こんなに大きくなったんだ!
でも、今も人気者で大勢の人に見られていた。
 砥部では700年頃から須恵器が焼かれていたらしい。正倉院文書に「伊予砥」に課税された記載がある。「砥部焼伝統産業会館」で古い沢山の展示品や窯元さんの新しい作品を見た。彼女の好きな‘梅野’という窯元さんは、残念ながら休みだった。
 帰り道、明るい煉瓦壁の素敵な建物が見えてきて驚いていると、「イタリアンレストラン・トスカーナよ!」と言う。「お昼はパスタね!」と即決。美味しいランチだった。
 砥部焼の皿に‘ぼっちゃんだんご’。ピースくんのタオル。動物園のマンホールです。松山市の花は椿なので、町中のマンホールは、赤と桃色の椿が描かれていた。
 

2010年1月26日火曜日

ぼっちゃん列車

 松山市内は路面電車が走っている。松山城をグルリ回るようにして市内を走り、普通の電車の間を数便‘ぼっちゃん列車’が走っていて楽しい。
伊予鉄道が、1888年からドイツ製の蒸気機関車を走らせて、今は当然ディーゼル機関車です。
宿に帰るとき‘ぼっちゃん列車’は夕陽に照らされて、道後温泉駅に止まっていた。大人気で、観光客と一緒に撮られていた。翌朝9時から走るそうだ。

     湯太鼓の時を知らせり寒茜     つるばみ

2010年1月25日月曜日

愚陀佛庵

 65歳以上であれば、空港で ‘もし空席があれば’ 国内大抵のところへ一万円で行ける。
それを利用して、伊予松山へ出かけた。空港では、若い頃の友人が 出迎えてくれた。「さあ!何処でも御案内しますよ!」 と頼もしい。   お嬢さま育ちの彼女は、歳月を経ても初々しく、釣られて若い頃の気持ちが、甦ってきた。
初めて訪れた土地だけれど、穏やかな人柄・土地柄の空気を感じる。話を聞きながら城山の山腹に復元された‘愚陀佛庵’へ登って行った。
 明治28年に、漱石が松山中学の教師として一年間赴任した折りの二階造りは、簡素な佇まいだった。子規と50日余り起居を共にしたそうだ。「子規遺稿」を読んでいたら、「二階に漱石、階下に子規がいた。」とあった。

      「愚陀佛は主人の名なり冬籠る」   漱石
      「桔梗活けてしばらく仮の書斎哉」  子規
 

2010年1月20日水曜日

軍事郵便




 正月に家族が集まると、誰かが押入れから、古いアルバムを出してくる。5回の転居をしているので、いろいろ捨ててきたが、アルバムは残っている。積み上げると2m近くもあるだろうか。
4歳児が、自分の母親の4歳頃の写真を見て、‘自分だ!’と言い張ったのが可笑しかった。
探していた‘軍事郵便’があった。こんな所にあったんだ!
 昭和18年に中支で戦死した叔父(夫の)からのもので、小学校入学の折のものです。カタカナで書いてある。入学おめでとうから始まって、最後に詩が書いてある。
「アヲイ アヲイ ノモ ヤマモ ソラモ アオイ コドモハ ゲンキダ ノヲ ヤマヲ カケマハッテ クサヲ ツミ ソラ二 ウタヲ ウタヒマス カワイイ ゲンキナ シナノ子ノ 日本ノウタ」 
叔父さんは、この手紙を書かれた年に中支で戦死されたそうだ。

2010年1月16日土曜日

継ぎ当て

 寒くなると‘袖なしチャンチャンコ’を着る。軽く暖かく身体に馴染むものは、長く着る事になる。襟の部分が傷んできたので、刺し子のように補修してみたけれど、いよいよ酷くなってきたので当て布を探した。
 以前ゴルフをしていた頃の私のウエアーに付いていた‘ワッペン’を継ぎ当てに使うことにした。 綺麗なリボンや可愛いボタンと一緒に‘ワッペン’も残してあった。シャツから外した‘ワッペン’はとても可愛くて捨てる気になれなかった。捨てなくて良かった!ほつれた襟に付けて、胸にもおまけを付けた。
「おまけしといたから!」と言うと、おまけも気に入ったらしい。 以前は、靴下に電球を入れて、子供達の靴下の継ぎ当てをしていた。
 「母さんのあかぎれ痛い。生味噌をすりこむ…」(母さんの歌 窪田聡作詞・作曲) を唄う時に、昔のお母さんは、‘あかぎれに生味噌をすり込んだ’のだろうか?と、いつも思う。

2010年1月14日木曜日

パンジー (スミレ科)

  秋から春にかけて、半年間も次々に咲くパンジーは、花壇には欠かせない。
11月に チューリップの球根150球を埋め込んだ上に、パンジーを植えた。
昨年は、球根の上にビオラを植えた。パンジーの花径は6cmくらい、ビオラの花径は2~3cmくらいです。
 3月にチューリップの葉が伸びてくると、負けじと茎が高く伸びてくるが、それまでは横に張って花壇を覆ってくれる。今朝も霜柱がたって可哀想な状態だけれど、茎が伸びる4月には、パンジーの花束を作って配っている。「長く咲いているワ!」と喜ばれる。 部屋に飾ると匂う。
女の子は、真っ赤な薔薇の豪華な花束よりも、可憐なスミレの花束を貰う方が好き!
 明治期に日本に入って来た時に‘人面相・遊蝶花・三色菫’と和名をつけて普及していったそうだ。フランス語のパンセ(考える、思想)から、パンジーと名付けられたそうだ。     パンジーをじっと見つめていると、何か語りかけてくるようだ。

2010年1月10日日曜日

上野動物園

 1月3日の上野動物園は大変混んでいた。東門から入場すると使い捨てカイロを配っている。園長さんと着ぐるみの虎と記念撮影したかったが、長蛇の列なので諦めて歩き始めたけれど、すぐにカワウソの所で立ち止まる。透明なパイプで池と透き通った水槽を繋いであり、勢い良く行き来するカワウソ達から目が離せない。ライオン・ゴリラ・クマ・サル・鳥舎も広くて、皆な活発に動いていて素晴らしい。さすが明治15年に開園した日本一の老舗だと思う。木々も大きくて立派だ。スマトラ虎をもっと観察したかったけれど、園内放送で、フェアリーペンギン・王様ペンギンの食事が始まるらしくて、そちらへ移動した。飼育係りの青年が説明をしながら鯵を投げ入れると、何処からか来た水鳥が横取りしている。「この鳥たちは、動物園のではありません。」と言われたので、皆ドッと笑った。アシカの食事は、大きめの鯵だ。その後、私達も食事をした。
 懸垂型のモノレールで西園へ行って、‘こども動物園’でずーっと遊んだ。ボランティアの方々が抱かせてくれる。チャボ・はつかねずみ・モルモット・ウサギ・子山羊のマカロンちゃんが逃げ回っていて可愛い。
出口で「よーく手を洗いましょう!」と言われている。売店で‘シュライヒの虎’を買ったら、お正月のプレゼントとして‘トラのピンバッチ’を頂いた。「又、来ようね!」と言いながら帰ってきた。 

2010年1月7日木曜日

七草粥

 今日は、早や‘七草粥’を食べる日なので野菜を刻んだ。毎年スーパーで‘ 七草粥セット’を買って、トントンと叩いていたけれど、今年は家にあるもので作った。セリ・ハコベ・スズナ・スズシロ・胡麻・大根の葉を入れて炊きました。塩は香草岩塩が美味しい。
ナズナは、秋に草取りをした時に、沢山はえていたのに見つからない。ゴギョウは、3月に入らないと見つからない。ホトケノザは間違えているかも知れないので摘まなかった。
暮れから、ハコベを活けていたら、白い根がたくさん出ていて、いくつもの蕾が膨らんでいる。逞しいなあ!と感心した。

  七草粥の湯気の向こうに朝日かな    つるばみ