2010年6月30日水曜日
留学生
トウルージュのブラニャック空港で出国手続きをしてパリで乗り換えて帰国した。ボルドーからトウルージュまで、日本人観光客に全く会わなかったけれど、やっと空港で駐在の日本人家族を見かけた。
パリからの隣の席は、フランス語の新聞を持った若い日本女性だった。出発して落ち着いた頃、飲み物が配られたので、シャンパンを頼んだ。
「私もシャンパンを!」と 彼女も頼んだ。
「フランスにお住まいですか?」と 聞いてみた。
留学を終えて日本へ帰るところだそうで、心理学を学んだそうだ。東北大学の一年間の交換留学生で、最初は授業が解らなくて困りました!と言っていた。
「私は転勤で、仙台に5年間住んでいたんですよ!」と言ってから、一気におしゃべりが弾んだ。
お昼の日本食を食べる時に、味噌汁のカップを両手に持って、「美味しい!」と 言いながら飲んでいたが、
食事が終わると、長々と足を伸ばして眠りこけていた。
ボルドーの案内の女性は、「ボルドー大学に留学中に知りあって結婚して14年経つ。」と言っていた。
カルカッソンヌの女性は「パリに画学生として留学中に知りあって結婚し11年経ち、息子がいる。」と言っていた。
何度かの機内の放送で、機長は女性ではないかな?という印象を持った。到着して聞いてみると、「左様で御座います。副操縦士も女性で、もう一人の副は若い男性です。‘エアフラ’には女性のパイロットが多いのですよ。」
と言われて話し込んだ。
荷物がターンテーブルで回って来るのを待ちながら、
「機長の年齢を聞けば良かった!」と 思って、忘れ物をしてきた様な気持ちになった。
2010年6月29日火曜日
カルカッソンヌ
ヨーロッパで最大の中世の城郭が残るカルカッソンヌへきた。
丘の上の11世紀に建てられたコムタル城は、街の何処からでも見える。
電動の遊覧車で登った。大きな石垣が幾重にも築かれた要塞です。‘カタリ派’と十時軍の攻防で破れてから荒廃していった。19世紀に入って修復が始まっている。
今は、旧住居地の方には芸術家達が移り住み、城郭内には博物館もある。教会に入るとロシアからの男性聖歌隊の澄んだ賛美歌が聞こえてきた。座って暫らく聞き入った。
この城は、ケビンコスナーの「ロビンフット」のロケ地になったそうだ。ごつい石の連なる城壁で、長い戦いにも耐えただろう。歩いている時に、この険しさは八達嶺に似てるな!と思った。夜は一晩中ライトアップしているので、ホテルの窓から撮った。
町中ではミディ運河が遊覧船を移動させていた。19世紀になって、鉄道が出来るまでは、大西洋と地中海を結ぶ240kmの重要な輸送ルートであった。
徴税使 ピエール=ポール・リケの発案で、ルイ14世の国の事業となり、リケも私財を投げ打ったそうです。
ジブラルタル海峡を通る通行税は高く、海賊も出るし、時間もかかったそうです。。
運河ぞいには、プラタナスや糸杉の並木が続いて遊歩道も楽しめる。
2010年6月27日日曜日
巡礼路
ロカマドールで、アルズー川を見下ろす119mの石灰岩の絶壁の上に建つ城・教会から下りる途中で、中世の格好をした巡礼者を見かけた。
カトリックの3大巡礼地は、エルサレム・ローマ・サンティアゴのデ・コンポステイラである。サンティアゴを目指すには、フランスからピレネー山脈の峠を越えて行く。
先日新聞を読んでいたら、「埼玉県草加市役所を夫婦揃って退職し、サンチィアゴを目指した」と いう記事が載っていた。ピレネー山脈越えで難儀したという話だった。途中で2人の日本人に会ったが、2人とも退職したばかりだったとか。
人は何かを求めて歩く。四国遍路や○○ケ所巡りは、目指すというより寺を巡る。私は遍路旅に出た事がない。
2010年6月26日土曜日
アンリ・ド・トウールーズ=ロートレック
画家ロートレック(1864~1901年)の生まれ育った町 アルビ を訪ねた。
青銅器時代から人が住んでいたと言われるが、1450年ころから藍の染料で栄え、パステル画材の取引で豊かになった町です。今は、しゃれた帽子で有名です。
ホテルに落ち着いてから夕飯の為に歩いて出かけた。
生家のそばのレストランでは、美食家だったロートレックが出した‘レシピ本’の中の料理を出している。豪華なしつらい、華やかなマダム、美しい皿、手を抜いていない料理を味わった。帰る時に黒人の料理人が挨拶した。
伯爵家に生まれたロートレックは13歳の時に椅子から落ちて、大腿骨を骨折、一年後リハビリ中に溝に落ちて、両方の足を骨折し成長が止まった。
その頃の貴族は、家系内の血族結婚が多く遺伝子疾患が出ていると言われている。
近くに聖チュチリア大聖堂があり、そばの司教の屋敷が美術館になっていた。母親の寄贈で1000点の作品が展示してある。乗馬に憧れて馬の絵が多い。
鏡の中の自画像は一枚だけ。母親を描いたものは3枚で、3枚とも絵具をミルクで溶いたような柔らかい色調だけれど、どの顔も目を伏せて憂いに満ちている。
パリで、アルコール中毒と性病で心と体を病み、母親の館で37歳で亡くなった。「お母さん!あなただけです!」という最後の言葉を残している。
2010年6月25日金曜日
サッカー
なんだか騒がしいので目覚めて、枕元のラジオのスイッチを入れると 「日本は正しいサッカーをしています!」と 叫んでいたので、笑いながら起きてしまった。
「もう2点も入れてるよ!」と夫が言ったので、はっきり目覚めた。
旅の初め頃、フランス語の判る添乗員さんが、朝、出発時に「日本はカメルーンに1対0で勝ちました!」と 言われた。「あの日本が勝ったぞ!カメルーンが敗れた!」とテレビで言っていたとか。
‘あの日本’というのは失礼だなあ!
でも欧州では、その程度に思われているのだろう。
買い物をしたレシートを見ていたら、消費税は19.6%だった。ガソリンの値段を運転手さんに聞くと「1ℓが1ユーロ20セントだ」と言っていた。明るい運転手さんで少し日本語を話した。労働時間は週35時間制なので、5日目に交代した。沢山の車を見かけたけれど、‘プジョー’のライオンのエンブレムが光っている。ジャガーの姿は少なかった。
2010年6月24日木曜日
アヴェロンの真珠 コンク
アヴェロン県は3割近くが森林で、人口密度は1km2に30人。南に位置しているが雪も降る。交通の便が悪くて、村はそのまま残されていった。
タルン川渓谷にあるコンク村の人口は、冬は80人で夏は800人になるとか。修道院は発見された聖遺物や宝物を集めていて、聖遺物は真珠・宝石などで飾られていた。
11世紀にサント・フォア教会を建て、巡礼地として栄えていった。帆立貝の紋章が、村のあちこちに貼ってある。
教会の中に入ると、「何か違うなあ!」と 感じたけれど、写真を撮っていて気づいた。
暗い中に浮かぶ美しい色のステンドグラスではなくて、白灰色に濃灰色の線が配されたガラスで、近代的な美術館のように思えた。
文化省の依頼で、村に縁のある抽象画家ピエール・スラージュ(1919~)の製作による窓だった。
ジャン・アンリ・ファーブルは、アヴェロン県の村で生まれ育った。4歳~7歳まで祖父母のもとで大自然に囲まれ育ったそうです。「昆虫記」を児童書で読んで、‘フンコロガシ’のことを初めて知ったことを思い出しました。
2010年6月23日水曜日
赤い村(コロンジュ・ルージュ)
1982年に「フランスの最も美しい村」協会が出来て、152ケ所が認定されている。
その資格は、村民2000人以下、国指定の歴史的遺産・遺跡が2ケ所以上あること、村の議会で承認され名乗り出ている事とある。
最初に提唱した村長さんの‘赤い村’を訪ねた。
村の近くに切り出す石が無いために、赤土で焼いた赤いレンガで道、家が出来ていて、優しく可愛い雰囲気の村は、観光客で賑わっていた。
そこを出て、暫らく車で走ってから、カレナック村へ1本の橋を渡って入った。
白黄色の石造りの円い窓をしたルネッサンス様式の家々と11世紀に建てられたサンピエール教会・回廊のある小さな修道院・16世紀に建ったドワイエン城を訪ねた。
「教会の扉の上のタンパン(アーチ部分に彫られた彫刻)は貴重なものです。」と観光案内の人の説明だった。
人口400人の村は観光客もいなくて、ひっそりとしていた
2010年6月22日火曜日
ラスコー洞窟
ラスコー洞窟の壁画博物館の駐車場は、ユーロ圏からの見学者の車で一杯だった。
車のナンバーの左端に、国の頭文字(F・I・S・D・P・O)があるので、「何処から来たのかなあ!」って楽しい。
松林の中を通って、行列を作って待っていると、30人くらいづつ案内された。歴史や紹介がフランス語と英語で書いてある部屋で待っていると、厚い扉を開けてくれて入った。洞窟が本物そっくりに作ってあるそうで、真っ暗だ。
目が慣れてくると足元の薄い灯りが見えてきた。
広い空間に見事な壁画が浮かびあがる。ペンライトを当てながら英語で説明される。15,000年前の旧石器時代にクロマニヨン人によって描かれたそうです。8000体もの馬・雄牛・人間・山羊・鹿・鳥・紋章らしき図・手形がある。
絵の具は、赤土・木の墨・顔料を樹液・獣脂・血・つばで溶かしたであろうということだ。
5月に志摩スペイン村のハビエル城の中で見た‘アルタミラの壁画’のレプリカと大変似ている。
この洞窟を見つけた少年4人のうち2人は健在だそうだ
外に出て、事務所で絵本(23×30cm・30頁)を求めた。少女の当時の暮らしを描いていて、フランス語が読めなくても、絵を見ながら話してあげる事ができる。夏休みが楽しみになってきた。 松林で松ぼっくりを数個拾った。
2010年6月21日月曜日
ドルドーニュ渓谷
フランス南部を流れる‘ドルドーニュ川’を溯ると、フランスで最も美しいと言われる(村・城・教会)が点在している。
船から見る予定が、増水し流れが速いので中止になった。
前夜のテレビで、南部の街の洪水を映していたっけ!
‘ベイナック・エ・カズナック’の岩にへばり付くような村を歩き、教会を訪ねる。細い石の道を上り下りする。
さらに、車で登り‘ラ・ロック・ガジャック’を訪ねた。城は川を真っ直ぐ見下ろす要塞のようだ。これは攻めにくい。
墓地には、お棺のように大きな長方形の墓が並び、その上には、埋葬された人々の名前を刻んだ石板が置かれてある。写真入りのもあった。
川は、運搬船により木材・クルミ・ワイン・塩漬けの魚などを運んで栄えていたそうです。
2010年6月20日日曜日
サルラの朝市
ボルドーの郊外へ出ると、何処までも丘の向こうまでも、葡萄の畑が広がっている。1.5mの高さに剪定した木が畝毎に林立している。畝の端にはバラが1株づつ植えてある。葡萄に付く虫は、バラが好きなので、バラの様子を見て、害虫の駆除をするそうです。
古代ローマ時代から栽培し上質の赤ワインを作ってきた。サンティアゴへの巡礼の途中に立ち寄った旅人によって、「素晴らしいワインがあるぞ!」と 広まっていった。
14世紀~15世紀の街並みがそのまま残る‘サルラ’の朝市へ出かけた。バカンスには早いので、人が少なくて、ゆっくり楽しんだ。大通りの真ん中にテントが両側2列に並んで、様々な店が出ている。フォアグラ・トリュフ・チーズ・鴨肉・ハムソーセージ・くるみのオイルとパテ・皮工芸品・刃物・野菜・果物。通りの店のショーウインドーのセンスは素晴らしい!路地に入り込むと面白い!レストランや画材屋さんや絵も売っている。
城砦の名残の石垣が、所々残っていた。
絵葉書を書いて自分宛に出した。ポストの色が黄色で、50×50cmの箱が壁に取り付けてあった。
日本はイギリスの郵便制度を取り入れたので赤色です。
2010年6月19日土曜日
ボルドー
成田から11時間半のフライトでパリに着き、乗り継いで1時間20分でボルドーに着いた。時差7時間。
ピレネー山脈からのガロンヌ河の河口沿いに紀元前300年頃にケルト人が住みついたといわれている。
歴史を重ねながら、交易で栄えた町には、大広場・大劇場・美術館・博物館・城門の大鐘楼・大聖堂が聳える。
歴史の古いボルドー大学の3Mは、モンテーニュ(1533~1592)・モンテスキュー(1689~1755)・モーリヤック(1855~1970)「憶えて下さいね!」と 案内の人に言われた。
街の電線類は地下に埋められ、車が町へ進入するのを押さえる為に、‘電力のトラム’が静かに4両編成で走っている。看板には規制がある。点滅するネオンは薬局の緑十字のみ。洗濯物は地下の乾燥室か中庭に干す。
ライムストーンの4階建ての住宅の煙突が目につく。「今も使われているの?」と質問した。「電気ガスが主力ですが、暖炉は活躍しています。」「煙突掃除は?」と又質問。「資格を持った所にお願いしています。もし、何かあると保険が降りないんですよ。」と言って笑った。
広場のあちこちには、街にとって大切な人々の彫像が建っているが、フランス革命に散った‘ジロンド派の人々の懐魂塔’が黒光りしていた。 私もそっと撫でてみた。
2010年6月7日月曜日
シチトウ(カヤツリグサ科) 琉球藺
藺草の一種で、柔道の畳(縁なし畳)などに使われてきた。奄美大島のマングローブの傍に多く、1m~1.5mにも育つ。九州にも多かったようだけれど、今では、大分県国東地方の十軒の農家で栽培されるのみになっているそうです。
3年前の夏、博多空港で待ち時間に、ブラブラしている時に、‘シチトウ’を使った草履を作っているのに出会った。 「丈夫でしょうねえ!」と言ったら、いろいろ説明して下さり、気に入って求めた。
最初は、固くて足の裏がヒリヒリして痛かった。底には5㎜の厚さのゴム板が張ってある。浴衣で素足に、この草履を履くと、‘村の盆踊りと村娘’が浮かんでくる。
「今年の夏祭りには、盆踊りを踊ろうかなあ!」と 思うけれど、踊るのは相当の勇気がいる。
2010年6月6日日曜日
2010年6月4日金曜日
ナスタチューム(ノウゼンハレン科) 和名 金蓮花
2010年6月2日水曜日
「ぼくがうまれた音」
絵本「ぼくがうまれた音」(福音館書店)の、文章はトランペット奏者の近藤等則氏が書かれた。
絵は画家の智内兄助氏が描かれている。
お二人は、愛媛県の今治西高校の同級生です。
昨年の‘ブラティスラヴァ世界絵本原画展’で、智内画伯は、この絵本で三位を授章された。
中庭花壇から見える部屋をアトリエにしておられる。
朝6時前に草取りしていると、もう描いておられる。時々スポーツクラブで泳いでおられるのにもゆき会う。
楕円形の下駄を履いて(音がする)、普段着やアクセサリーは、見かけないような洒落たものばかりだ。
「お母さんのお腹の中で ザウアー ゴウオー という音を聞きながら育って、ある日世の中に出てくると、来島海峡のザウアー ゴウオーという音が聞こえてきた。」という話から始まる。
子供のころの、瀬戸内海の町の暮らしは、すべての原点と感じさせられる。
尾道の‘なかた美術館’で、個展を開かれた事もあって、「あそこのフランス料理は美味しいよね!」「魚の料理が、特に美味しいと思いますが…。」と 立ち話をした事があった。
画集と絵本に、サインして頂いた。見開きいっぱいに私の名前を絵のように書いて、様々な花押も入れて下さっていて素晴らしい!嬉しいナ!
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