2011年10月15日土曜日

清泉女子大学本館(旧島津公爵邸)

 「江戸時代の伊達家の下屋敷は、明治の世になり島津家のものとなりました。家屋はそのまま使っていましたが、明治39年にジュサイア・コンドル(英1852~1920)に設計を委嘱して建て変えられました。」と清泉女子大学の方が説明して下さった。
正面玄関一面のステンドグラスの上には、丸に十の字の家紋が入っていた。
 昭和初期の金融恐慌で、島津家も経済が逼迫し、3万坪の敷地は8000坪を残し売却。大戦が激しくなり日銀へ売却。敗戦後はGHQが接収。
横須賀にあった清泉女子大は治安が悪く移転を考えていた折に、吉田茂氏と親交あったシスター達の願いで、昭和36年に日銀から土地・建物を買い取りました。と説明された。広い芝生の先の森に中に見事なフウ(楓)の木があった。伊達家の頃の樹で樹齢200年だそうで、「1ヵ月後には見事に紅葉しますので見に来て下さい。」とも。
大河ドラマ「篤姫」以来‘島津山’は人気で、周辺には‘●●島津山’‘島津山■■’という名前のマンションが多い。
「マンション建設反対」の幟も家々の前に立っていた。

2011年10月13日木曜日

麒麟

 今日は、お稽古の後に、高橋よう子先生とお仲間でお昼を食べました。
上海小南国銀座店のランチは手ごろな値段で、手が込んでいながら爽やかな料理で、しっかりしたスープでした。
‘麒麟’の大きな像(2m×1m)が目に付いた。古墳から掘り出したような仕上げになっている。お店の周さんに伺ったところによると、「中国5千年の歴史上の空を翔る生き物で、鹿・龍・蛇・馬からなる想像上の動物です。」ということだった。
壜にも素敵な中国服が着せてあった。

 4年前、博多の‘キリン幼稚園’へ孫が通っていた時、園服をたたんでいて、裏のタグを見ると、どれにも‘キリン児’という文字が入っていて驚いた!
「まあ!麒麟児を育てる幼稚園へ行かせているの?」と訊ねると「麒麟児ってなあに?」とママが言った。「……?」


2011年10月12日水曜日

 夏頃から立ったり、しゃがんだりが重くなった。夏ばてかなあ?と思っていたけれど、9月21日の台風の折に5時間立ちっぱなしだったせいか、終日サポーターに頼るようになった。
K整形外科で診て貰った。K先生に、1年半前から骨粗鬆症のための薬を頂いている。「X線写真に写るほど半月板も関節軟骨にも異常はありません。少しづつ磨り減っていくものだから、大腿四頭筋を鍛えて膝がぐらつかない様にして下さい。サポーターに頼ってはいけない!寝る時は膝の裏に枕を!」とおっしゃった。シップを貼ってもらって帰りに、Y眼科へ久し振りに行った。白内障予防の目薬がとっくになくなっていた。
まつげが眼球に張りついていたのを4本取ってくださり、目薬を出して頂いた。まつげが眼球に張り付いているなんて!何も気づかなかった!
「他に気になることはありますか?」と聞かれて思わず「膝がちょっと…」と言ったら「いや!目に関して!」と笑われてしまった。
この所ずーっと膝のことで頭が一杯だったから。
 帰りに靴屋さんで、足を包み込んでO脚を治す立体成型の中敷を求めた。歩くとやっぱり痛い感じが残る。

2011年10月9日日曜日

ガーデンシクラメンとコスモス

 毎月第2日曜日は中庭花壇の植栽日です。
先月植えた‘強いはずのナデシコ’は、花が終わると次々と枯れて「どうしたんだろう?」と皆で話していたが、仕方ないので動かして、ガーデンシクラメンとコスモスを植え足した。

 ガーデンシクラメンは埼玉県本庄市の田島嶽氏が、鉢植えの大きなシクラメンと原種を交配させて、育てやすく、寒さに強い小さなシクラメンを作られた。
霜にも強く、夏越えもさせやすいし、寄せ植えに良い。
昨年11月末頃に東松山の森林公園で、小さいシクラメンの原種の群生地を見て、感動したことを思い出した。
 今の季節はコスモスをあちこちで見かける。ピンク・白・赤い花が揺れるのが可愛い。
明治の中頃入って人気者になった。しかし、「河川敷などに種を蒔いて、一面コスモスの原っぱにするのは、在来の植生が乱れる」という批判があると聞く。

2011年10月8日土曜日

ブリッジ

 「シャンシャイになったからブリッジできるようになったよ!」
「すっごーい!見せて見せて!」と言ったら、ブリッジをして見せた。ウン?なんか違う!両手を腹に乗せている。が手の置き方を教えるには幼いだろう!
「有難う!」と拍手した。早く止めさせないと、頭も首も痛めてしまう。計ったらお尻が25cm上がっていた。
幼稚園で組み体操を見てから真似しているらしい。
写真を撮りたかったので、もう一度お願いしてしまった。
プリントしてみて、表情が頑張っていたので笑ってしまった。



2011年10月7日金曜日

地下道

 名古屋市栄にある‘安藤七宝店本店’の蔵の美術館で、七宝焼きを見たいと出かけた。松坂屋本店前の道路をはさんで、向かい側にある。
地下鉄名城線の矢場町駅から地下道を歩いていて「まあ!きれい!」と声をあげた。人々は知らん振りして歩いている。珍しくないのだろう。
様々な図柄が描かれてあった。
大理石?大理石風?の壁に、薄く削いだ石を染めて、タイルのように張ってあった。広告は一切ない。
 
古代バビロンの王宮と神殿を繋ぐためにユーフラテス川の下を通したといわれている地下道にもこんな模様が施してあったかもしれないねえ!と一人で思った。
蔵の美術館は水曜日はお休みだったけれど、無料招待券を下さった。


2011年10月6日木曜日

ご先祖さま

 夫の母の3回忌のために帰郷しました。誰も住んでいない家は、さほど変わっていなかった。仏壇も墓も変わらずに花柚子が今年も沢山実っていました。

 廣島空港まで出迎えてくれた妹が「私たちのご先祖さまの土地へ行ってみない?」と言って車を走らせてくれた。私の父の故里は、空港から30分くらいの高屋という場所です。明治39年生まれの父は「毛利の家臣で、うちは庄屋だった。」と言っていたけれど、本家でもなく、長男でもないので、工業学校を出て軍港の町に住み着いた。昭和5年頃シンガーミシンの代理店を興して、部品輸入、組み立て、販売し、母が洋裁教室を併設していた。戦後は進駐軍が引き上げる時に、ミシンを持って帰るので繁盛していた。
備後平野は美しい稔りの秋の風景で、祭りの準備で幟なども立っていた。昭和44年に県の史跡に指定され、資料館もあるらしいけれど、寄るのは又の機会にしましょう!と呉の町へ急いだ。
帰宅してから、県史やウイキペディアを読んでみて、もっと父の話を真面目に聞いておけば良かったなあと反省した。
故里を離れて、もう47年も過ぎた。