2011年3月29日火曜日

世界のタイル美術館

 名鉄特急で‘中部国際空港行き’に乗り、一つ手前の駅‘常滑’で降りた。駅前からバスで‘INAXライブミュージアム’へ。S先生から「お勧めしますよ!」と伺っていたけれど、中々チャンスがなかった。常滑焼の急須と土管くらいしか知らないのだけれど、高い煙突が見える焼き物の町で海が近い。敷地の中は‘ものづくり工房・土どろんこ舘・陶楽工房・釜・資料館’があるけれど、先ず真っ直ぐに‘タイル美術館’を目指した。

展示室の入り口は5メートルもある‘ペルシャの青’のタイル張りだった。1000点の作品は5000年前の日干しレンガから長い歴史を教えてくれる。住居に使っているオランダ・イギリスの絵画タイルの変遷・エジプトに残る印鑑や文書やお守り(スカラベ)・中国のタイル・日本の染付け技法を用いた芸術的なタイル等など。歩き疲れて休みながら、行きつ戻りつ愉しんだ。 ※ペルシャの青色に白い色がかかっているのは、2階まで届くガラス窓からの外光が反射しました。

入る時に「お昼は此処にしよう!」と決めた併設のレストラン‘ピッツエリア ラ・フォルナーチェ’は、予約客で一杯だった。薪釜から良い匂いがしてチーズやトマトや香草も嗅ぎ分けて、どっと疲れが出た。気を取り直してショップでお嫁ちゃんと娘と自分のおみやげに‘タイルの丸い鍋敷き’を求めた。パスタを計るように(1人前・2人前・3人前)穴が空いていて、美味しそうな食べ物やワインまで描かれていて益々お腹が空いた。



 帰りの電車の中で、79年のヴェスヴィオ火山の大噴火で、熱い灰に1800年もの間埋まったままだった町‘ポンペイ’を 見学した時に見た‘床のタイル’の色や意匠の素晴らしさに感動した旅を思い出した。

2011年3月26日土曜日

海南こどもの国

 「放射能が怖いので春は帰省しません。こちらへ来て!」と言うので、‘春の短期水泳教室・体操教室・ディズニーランドのホテル’をキャンセルして名古屋へ出かけた。
 幼い子ども達は、よく飲み、食べ、排泄し、動き回り、暗闇を怖がり、寒いとすぐに鼻水を垂らして風邪を引く。そして泣いて訴える。
被災地のママ達はどうやって凌いでおられるのだろうか?と思うと……。

 横浜に次いで出来た桑名市長島温泉の中にある「アンパンマンこどもミュージアム」へ出かけた。
その夜は近くの温泉宿に泊まり、翌日は弥富市にある「海南こどもの国」で遊んだ。海面より低地で‘金魚の養殖’が盛んだったそうだけれど、畑が広がっている。「この辺りは金魚池だったけれど殆ど廃業して、もう数軒しか残っていません。」とタクシーの運転手さんが言っていた。
‘子どもの国’の広い敷地は起伏が少なく、身体を使う遊具が沢山あり、春休みに入った子ども達が走り回って遊んでいる。

広々とした敷地の真ん中に、岐阜県根尾村の‘薄墨桜’のサクランボから育てた桜木は、もう花が咲き始めていた。

2011年3月20日日曜日

ぼたもち

 春彼岸なので‘牡丹餅’を食べた。
墓参りはおろか被災地では埋葬も出来ないと嘆いておられるのを思いながらも、牡丹餅を食べました。
 子供の頃は、春彼岸には母が‘ぼたもち’を作りご近所に配った。秋には‘おはぎ’を配った。お使いをしながら、同じ物なのに何故‘ぼたもち’と言ったり‘おはぎ’と言うんだろう?と思ったものです。ご近所からも頂いた。
もち米とうるち米半々のご飯を柔らか目に炊いて、塩を少し入れて、すりこ木で搗いた。手伝う時に「半殺しよ!」と言いながら、その加減に神経を使っていた母を思い出す。少し米粒の残るご飯で餡を包み、周りに黄な粉をまぶしたのを好きだった。私のだけ白い砂糖を少し乗せた。東京のは、ご飯の周りを餡で包んであるのが多い。 
 「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という正岡子規(1867~1902)の句がある。
子規が「今朝は寒いね!」と言ったら、それに応じてお母さんは句のように言われたそうです。前書きに「母の詞自ら句になりて」とあり、1893年東京・根岸で彼岸の入りの朝のことだそうです。
伊予弁は優しくてイントネーションがのんびりしていて、松山の友人と話していると、こちらまでゆったりした気持ちになる。4月に松山から国立市の娘さんの所へ来るので、会ってお喋りするのを愉しみに待っている!その頃には松山城の桜の話が聞けるだろう。

 

2011年3月18日金曜日

下り秋刀魚

 秋刀魚は8月中旬から北海道で獲れ始め、9月に三陸沖で、11月になると房総沖まで下がってくる。    
北の海で獲れる秋刀魚は脂肪をタップリ含んでいるけれど、南下を続けて紀州沖で獲れる頃には産卵を終えて脂肪が落ちてくる。熊野灘で獲れる秋刀魚はあっさりとした‘早春の味覚’として喜ばれている。
美味しい物をよくご存知の方が、直接網元へ注文して送って下さった。
網元濱中さんによると、‘さんま棒受け網漁’は 日没前から夜明け前にかけて操業するそうです。夜中に獲れる秋刀魚の腹にはプランクトンが残っているので、焼くと腹が割れるのだとか!夜明け前の秋刀魚の腹は空っぽなので、焼いて白子・卵・内臓まで美味しく食べられるのだとか!
冬の夜中の操業に頭が下がった。
水揚げすると妻たちが一本づつ塩をし、塩水で洗い落とし、紐に縛って潮風に当てて三日間陰干しする。
数が少ないので、昨年は 「秋刀魚が下りて来んので、送れんのです!」と 網元の奥さんから電話をもらった。
VA・Ca・VDの多い骨も内臓も美味しい。勿論 EPA・DHA も。



            

 三陸より下る秋刀魚や目に泪    
     
          つるばみ

2011年3月16日水曜日

ろうそく

 33年前の昭和53年6月12日に宮城県東方沖地震が起こった。
その翌年3月に仙台へ転勤して5年間住んだ。子供達は中学生だったのでPTAのお母さん方から、どんなに大変な思いをしたかを伺った。
地震が起こる1ヶ月前に 「青葉城恋歌」の レコードが出て復活への応援歌として、大ヒットとなっていた。学校のお集まりでは全員が3番まで歌えるのに驚いた時のことを思い出した。
その頃、非常時に備えて巨大な‘ろうそく’を1000円で買った。高さ30cm×直径8cmで、使わないまま仕舞ってあったのを取り出した。毎日時間帯の変わる ‘計画停電’ に備えているが、まだ使っていない。
一緒に買った仙台に住む友人とはまだ話せないけれど、彼女はこの‘ろうそく’を点しているだろうか。

2011年3月14日月曜日

3月11日(金)

 こんなに大規模の地震が起こって、こんな凄まじい大津波が押し寄せるなんて思いもよらずに、この日は朝から花壇倶楽部の人達と花苗を植えていた。
ノースポール30・ネモフィラ20・忘れな草20・市役所のみどり課から支給されたノースポール30・金魚草20も植えた。チューリップの芽がグイグイ出てきている。300球植えてあるから楽しみ!
3月は1年の締め括りの月なので、皆でお弁当を食べてお喋りをした。
「ご苦労さん!」と言って理事長さんの自腹から、明石町塩瀬総本店春限定の美しいお饅頭を一箱づつ頂いて、「4月からまた仲良く花壇のお世話をしましょうね!」と 言って解散した。
 家でホッとしている時にグラ~っときた瞬間に、食器棚に飛びついて押さえた。倒れたら掃除が大変だから!長く長く揺れた。重い本棚が酔っ払いみたいにグラングランしていても、どうしようもなかった。

 大量の電気は必要だから!という趨勢に押されて、不安を抑え込んできたけれど、やっぱり!と暗い気持ちで過ごす。
東電社長の平板な挨拶を聞いていて、怒りで血圧が上がった。

2011年3月9日水曜日

うぐいす餅


 「梅は咲いたが、鶯の初音は未だかいな!」と 詠いながら、うぐいす餅を作った。
‘春告げ鳥’と言われる鶯の姿を見たことがない。ハイキングへ行った時に、近くで「ホーホケキョ!ケキョケキョ!」と啼くのを聞いたことはある。
羽の色は緑がかった茶色とか! 鶯色だなあと思う‘目白’が、梅の花や桜の花を夢中で食べ散らかしているのを見かける事はある。そんな様子を見かけた時は嬉しい。
 うぐいす餅の求肥の扱いは、手早くしないといけないし、柔らか過ぎて量れないので、大きさがまちまちになる。和菓子職人さんは、手が憶えていて同じ大きさに作れるのだろう。
白玉粉は奮発して、京都の「黒豆茶庵」北尾の寒晒しのにした。200g120円で半分使った。求肥が硬くならないコツは、最後に水飴を入れて練り上げる事。
 「又 そんなもの作ってえ!」と 糖尿病予備軍から横槍が入った。

2011年3月7日月曜日

東京モノレール羽田線


 友人を羽田第二ターミナルで見送って、帰りは浜松町までモノレールの先頭車に乗った。別れはどんな時でも寂しいけれど、先頭車に乗ると少し忘れる。
1964年の東京オリンピックに合わせて、9月に運行が始まったというから、もう47年も経っているのか!と思った。一本のレールを跨いで京浜運河の上を走るので、多くの渡り鳥を見る時もある。屋形船や小船が繋がれている。大井競馬場の周辺に馬が出ているかな?と見ていたが、夕方なのでもういなかった。並行している道路。ビルの谷間やいくつかトンネルも通る。新しくできた国際空港は広々していた。
先頭車で楽しいのは、急カーブで車体が傾き、身体も合わせて傾くのを実感できる時です。ゴムのタイヤは安全性が高いらしい。
 上野動物園へ行くと‘ぶら下り型のモノレール’に乗る。1957年に出来たそうで、40年前子供たちと動物園へ行くと必ず乗ったなあ! 「ちょっとの距離だし、お金が勿体ないから歩こうよ!」と 言うと、むくれて座り込んだりしたものです。

2011年3月3日木曜日

ひとり雛祭り

 半月前からパソコンの待ちうけ画面にお雛様を飾っている。
先日、京都の老舗の‘中山人形店の京雛’をたくさん頂いたので、何度もスライドショーで一人眺めています。それを此処に添付して、たくさんの方に見て頂きたいけれど、勉強不足で方法がわかりません。
最初に京都七条仏所の垣の白い山茶花が現れる。真っ白い繊細な花びらの真ん中に濃い黄色の蕊が見事です。仏所とは運慶らが仏像を彫っていた場所らしいです。1657年からの人形店の上がり框が、分厚くて凄いです。そして上品な雛人形の数々とお道具……。
 友人からも写メでお母様のお雛様を送って貰った。明治35年3月3日生まれで、お爺様(松江の銀行頭取)が孫娘誕生を祝って、京都で作らせたのだと話してくれた。109年もの間、静かに息づいてこられた。


ご近所のO夫人が酒粕で作って下さった 円やかな‘白酒’ で、ほんのり酔いました。

‘ひとり雛祭り’も楽しいな!

2011年3月1日火曜日

ドイツビアレストラン「ベルマンズ ポルカ」

 赤坂溜池のドイツ人が経営するビアレストランのステージで、当時二期会オペラ研究生だった‘尾野玲子’さんはアルバイトで歌っておられた!と プロフィールに書いてある。
そこで人気を博して‘歌姫’のスタートを切られた。もうウン十年も前のことらしいけれど、色香は失われず悩殺されました。
サントリーホール ブルーローズ(小ホール)の前から二列目に座った。レパートリーのジャンルは広くて、私の好きな‘リリー・マルレーン’‘時は過ぎてゆく(ジョルジュ・ムスタキ)’も歌われた。













隣の席のおじさまが、身を乗り出して写真を撮っていたので、その陰に隠れつつ撮りました。昔‘スマップ’のコンサートへ行った時に、入り口で荷物検査があり、カメラを一時預かりされていた女の子がいたなあ!
来年からは、受験会場では携帯電話の一時預かりが始まるのだろうか?‘スマップのコンサート’へ行ったのは、娘の付き添いです。
今は楽しい思い出!