2013年8月15日木曜日

空襲の事

私の故郷は、軍港のあった町だった。
沢山の戦艦を作った造船所と海軍工廠があった。
戦艦大和も此処で作られた。
終戦の年、3月と7月に2回と、3回の爆撃で、港は壊滅状態になった。
瀬戸内海の小さな湾に面した町は、山に囲まれた、暖かく穏やかなところです。
昭和20年7月1日の未明から2日の朝にかけて、B29が襲来し、焼夷弾で市街地の大半が焼けてしまった。
毎晩のように‘空襲警報発令のサイレン’に、皆なモンペをはいて、枕元には防空頭巾と下駄を重ねて、いつでも飛び出せるようにして寝ていた。
小学校へ入る前だけれど、通っていた教会の幼稚園は、もう1年前から閉じていた。
夜中、母に起こされて、近くの防空壕へ3歳の妹と、近所の方々と入ったけれど、「火が迫ってきたぞ!」と 叫ぶ人がいて、母は、妹を背負い、私の手を引いて、山へ逃げた。途中、防火用水桶の水を頭から浴びながら。火の粉が降っていた。
夜が明けて、飛行機の爆音も去り、静かになってから家に帰ってみると、家の辺りは、幸いにも焼け残っていた。
しかし、焼け出された親戚や知り合いが、暫く一緒に住んでいたように思う。
8月15日を境に、電灯にかけていた覆いを取り、「明るいねえ!」と母が言ったのを思い出す。戦争に行っていた父は、いつ頃帰って来たのだろうか。
終戦から1か月後、枕崎台風の洪水に、町が襲われ、2000人近い死者が出た時には、父はまだ戦争から帰ってきていなかった。
小学校のクラスには、父親や親族を亡くした子が多かった。「中学生になったら、お国が靖国神社へ連れて行ってくれる。」という話をしていた友達もいた。

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